近江牛の歴史
古来、日本では牛は農作業に活躍する貴重な家畜として扱われており、また仏教のきんだん殺生思想による穢れ意識があり、牛肉を食べることはタブーとされていた。
しかし実際には、彦根周辺では昔から密かに食べられ、それが日本各地に広がっていったのである。
彦根藩は、幕府に陣太鼓に使う牛皮を毎年献上するのが慣例で江戸時代、公式に牛の屠殺が唯一認められていた藩であった。
知恵者はいるもので、三代藩主直澄時代の家臣花木伝衛門が中国の薬学本「本草網目」からヒントを得て、「反本丸」(へんぽんがん)と薬と称して流通させた。
千成亭蔵
本草網目には、健康な黄牛の肉は滋養に良いと書かれており、これを反本丸にする製法が次のように書かれている。 「黄牛の筋を取り除き、切断した肉を洗ってから一晩浸し更に三回洗う。さらに酒と共に煮て…」と製法は続き、かなり複雑である。
彦根博物館蔵(彦根委博 第225号)
無断使用禁止
寛政年間以降、彦根藩から将軍家や諸大名へ牛肉を贈った記録が「御城使寄合留帳」として残されている。 いずれも相手方から所望に応じて贈ったものである。寛政9年には、幕府から製法を尋ねられている。 このことから幕府、大名が牛肉の効能を認識していたと思われる。
赤穂浪士の大石内蔵助から、同士の堀部弥兵衛に宛てて、彦根産黄牛の味噌漬をおすそ分けすることを記した書状。老齢の弥兵衛にとっては養老の効果がある一方、若者(息子の大石主税)には食べさせてはいけないと伝えており、滋養薬として知られていたことがわかる。
文久3年(1863年)ごろ来日した写真家フェリックス・ペアトが宿場町 厚木の風景を撮影したものです。
右側の店が掲げている看板には、「牛肉漬」「薬種」との表記が見られます。(上に拡大)東海道から
離れた厚木で、江州彦根産の牛肉(味噌漬)が薬用として売られていたことがわかる。
井伊直弼は、仏法の教えを忠実に守り牛の屠殺を藩内で禁止する。直弼以前は、将軍家や御三家などに毎年贈られたがピタッと止む。開国問題や将軍後継をめぐって対立する水戸藩主徳川斉昭は、彦根牛の味噌漬が大好きだった。斉昭は今かと待つが届かない。やがて死者を出し「彦根肉の味噌漬を何とぞ贈らせ給へ」と頼むのである。
「牛を殺すことを禁じ、贈りようがない」と彦根藩。「禁じられたのはやむを得ないにしても…格別調べられ
たく頼むなり」と強談判だが「何分国禁ゆえ」と彦根藩も引かない。
「老公たびたびお頼みしたが承諾せず、さすがに不快に思い召される」。これが後年「桜田門外の変」を
引き起こす水戸藩と直弼との不和の遠因だったとする説は、説得力をもって伝えられた。